中里斉展
1986年6月23日~7月5日
「中里斉」エドワード F.フライ

「しかし、過去10年に於ける中里のたゆまざる進境は、彼が秀れた表現力と卓抜した技巧を有する作家であることだけにとどまらず、マイナーアーティストとしての評価に溺れることがなかったということを示している。なぜならば、中里は常に二つの異なったレヴェルを同時に追求しているからである。その一つは目的に達するいろいろな道程であり、もう一つは目的そのものである。中里の作品でキャンバス上の線の力をより活性化しているのは、その線が同時に色面を作り出し、それ等の二つはある関連があり、線の構造が色面に生命を与える、という考えに基づいている。それが彼の作品を新鮮により複雑にしているにも拘らず、視覚的な強さをも一体化しているのである。」

 

ストックッホルム、スウェーデン
ジーン・バロ

中里 斉展覧会

私が中里斉の作品を最初に見たのは、今から15年以上も前、彼が、グッケンハイム美術館でのジャパンアートフェスティバル展(1971年)で受賞する以前のことである。その時、彼は即座に、秀れた才能と、独自な技術を持ったアーティストに出会ったと思った。軽快で即興的なキャンバス上の線を見ると、誰しも彼の作品の視覚的強さと、情緒の入り混った、音楽的な響きを感じるに相違ない。中里は’70年代から現在に至る迄、その作品の平坦な矩型と内面的な情熱を一体化する稀な能力によって、常に新しい展開を志向している。

しかし、過去10年に於ける中里のたゆまざる進境は、彼が秀れた表現力と卓抜した技巧を有する作家であることだけにとどまらず、マイナーアーティストとしての評価に溺れることがなかったということを示している。なぜならば、中里は常に二つの異なったレヴェルを同時に追求しているからである。その一つは目的に達するいろいろな道程であり、もう一つは目的そのものである。中里の作品でキャンバス上の線の力をより活性化しているのは、その線が同時に色面を作り出し、それ等の二つはある関連があり、線の構造が色面に生命を与える、という考えに基づいている。それが彼の作品を新鮮により複雑にしているにも拘らず、視覚的な強さをも一体化しているのである。

ヨーロッパ人である私の眼から見れば、と云って私は日本の伝統について全く無知という訳ではないが……、中里の作品はきわめて興味深い未来的な展望を持っている。それは、アメリカの近代美学と日本の伝統的な形式(例えば畳、紋章、あるいは視覚的、知的なカリグラフィ)の相互を弁証法的に統一させる。ということである。というのも、中里はヨーロッパ近代の美学、とりわけその情緒的、象徴的、そして絵画の自立的な役割にヨーロッパの抽象美術をより拡大し、それを変貌させようと、日本の伝統の力を注いでいるからである。それと同時に、日本の伝統も又新しい、その故変貌という反作用を蒙っている。

結論をいえば、これ等の秀れた絵画はヨーロッパ的、且つ日本的であり、古く、且つ新しい。そして彼の作品は、その2つの伝統に跨っていることを語りしかも、各々の伝統を意識させることなく、各々にそれを知らしめている。中里の作品はそれ故、二重の自意識から自由になった表現であり、図像である、このことは極めて稀なことと思われる。それ等によってこのアーティストは、彼の才能の赴くままにその作品を堤示しているのである。

1986年5月
ニューヨークにて エドワード・F・フライ