中里斉展 モダニズム・ニューヨーク⇔原風景・町田
2010年6月19日~8月8日
「……私の作品には具体的な生活体験描写などは見当たらないが、それらは生活の中から創られたものであり、自分の感情生活の拠り所なのである。では、どの様にして生活の中にあって、如何に反応し表現に結びつくのだろうか。これを説明し理解する便宜上の方法として、私の生活には常に二つの面が存在する事があげられる。この二つの面の間から制作の動機付けが生まれると考えている。いわゆる智と感、客観と主観など普遍的なものは勿論含まれるのだが、ここで指摘したいのは、現実的生活の中での二面性についてである。……」
中里 斉 2010
「……中里のもう一つの特権的ポジションは、常に絵画と版画を並行して制作してきたという立場である。ここでも両者は別個のものではなく、深く呼応する関係にある。彼にとっての言語的な二重性が「一つの言語表現を、もう一つの言語で検証する」関係にあるように、版画と絵画の制作もまた相互に批評的に作用し合っているのだ。絵筆やローラーによる制作の直接性と版を介在させる制作の間接性が、主観的な要素と客観的な要素、即時的なものと計画的なプロセスを共存させた平面の空間の豊饒さを、彼の画面にもたらしているのである。……」
建畠晢、美術評論家、詩人、国立国際美術館、館長
「わたしが中里斉と直接知りあったのは、1968年多摩美大の教員同僚としてである。当時この大学には日本の前衛芸術をリードする斎藤義重がいて、わたしは御三家といわれた三人の批評家のなかで、東野芳明、中原佑介に続いて斎藤に誘われて専任教員となった。実技教員でも斎藤が声をかけたのは、高松次郎をはじめ最高のスタッフだった。そのほかに関根信夫、小清水漸、菅木志雄ら斎藤教室の卒業生たちが助手のようにたむろしていて、彼らは各自の制作コンセプトを問いつめた上、修飾や抒情の要素をとり除くと、これで徹底してやれという、斎藤の教育法を絶対的に信頼していた。……」
針生一郎、美術評論家、前日本美術評論家連盟会長、福井県あらわ市立金津「創作の森」館長、丸木美術館館長、和光大学名誉教授
「……外から見ると、これは理論的知識にまさって経験と悟性を重視する感性による作品として裏付けられるが、うわべだけでそのコンセプトを理解すると明らかに禅のようなものに思われる。しかし、斉の制作過程に対するこのような考察は、逆説的な矛盾(アンビバレンス)を引き起こす。作品を包括して哲学的な基盤の上でとらえることにはエキサイティングな満足感がある。一方、アメリカで制作するアーティストをその民族的遺産に基づいて無邪気に異国情緒化することは、特に西欧の文化的盗用の歴史が非常に侵略的で帝国主義に近いことを考慮すると、危険なのは明らかである。斉自身にとって、そのような外的影響は、如何なる優れたアーティストや工芸家にとってそうであるあるように、せいぜいスタジオで無意識のうちに現れるものだと思う。幾千時間もの準備によって鍛えられた体が、勝手に動くのである。……
……斉の版画、ドローイング、絵画を特徴付けているのはそれとなく遊び心のある好奇心であるが、これは生まれながらの偏屈癖の特徴でもある。彼の作品本体は、過去への敬意を表しているが、その一方で、過去と終わりのない論争をしているようでもある。斉が表現する幾何学的で有機的な線は、彼独特のアイデンティティが彼の制作上の実験と同化して、最終的に作品の個性となっている。それは優雅な技(わざ)であり、これらの複雑かつ幾何学的作品は、時間と空間を貫いて制作された、このアーティストの壮大な自画像でもあるのだ。」
マシュー×フリードマン、芸術家、文筆家、パーフォーマー、ペンシルバニア大学美術大学院ヴィジティング×アーティスト
「……中里が、実世界とは別の、平面という二次元の世界を集中的に思考して絵をつくる美術家である一方で、風景や日常の出来事、政治や社会、国際情勢に関心をいだく一般の社会生活者であることを自覚し、それらから得たイメージを平面空間に解放することを望むようになったからに違いない。……」
滝沢恭司、学芸員
線外から、単子論、そして黒雨
人間が毎日の生活を生き続ける中で、その明日への動機付けとなり、活力の基になる感情は好奇心だろう。有史以前の古代人から、IT革命の中に居る現代人までもこの好奇心に導かれて来た。そして、そこに人間の歴史が創られてきた。好奇心ゆえに明日が想像され、未来があると言えよう。逆に、好奇心を失い、想像する事を止めてしまうと歴史はそこで終わるのだろう。
我々は外の色々な事について知りたいという好奇心に導かれ、情報を吸収して経験する。そして、知り得て経験した事に対して反応した感情を、何らかの方法で表してみたいという好奇心と意欲が湧き、その表現とその手段を想像し、 形のあるものとして創造する。この手段が、私の場合は芸術の中の絵画表現であり、作品に複数性がある版画表現である。
私の作品には具体的な生活体験描写などは見当たらないが、それらは生活の中から創られたものであり、自分の感情生活の拠り所なのである。では、どの様にして生活の中にあって、如何に反応し表現に結びつくのだろうか。
これを説明し理解する便宜上の方法として、私の生活には常に二つの面が存在する事があげられる。この二つの面の間から制作の動機付けが生まれると考えている。いわゆる智と感、客観と主観など普遍的なものは勿論含まれるのだが、ここで指摘したいのは、現実的生活の中での二面性についてである。
まず、アメリカ社会と文化に対しての日本のそれだ。成人生活の大半を過ごしたアメリカ社会は、すでに異文化の社会とは言えないように感じる。しかし、このアメリカ社会の中で制作し続ける事は、日本に居るより遥かに強く日本の文化と社会を意識させ、時にはその狭間に居る事それ自身が制作のテーマになる事さえある。
次に、英語表現と日本語のそれの二つの言語だ。その間には言葉が違う、表現法が異なるだけでなく、論法、すなわち論理の積み上げ方の違いがあるのだ。この違いの中で、私は 一つの言語表現を、もう一つの言語で検証するという事を学び、 これを第二の習性とした。そして、制作過程の思考に両言語で検証しながら進めている。
最後に、スタジオの中で相互関係にあるのは、私の制作ジャンルの絵画と版画の二面であろう。この二つのどちらかが先導し、それにつられたもう一方が走り出す。あるいは、一つのアイデアが双方の間を行き来し、次の領域に向かって進んで行くという相互作用をなしている事である。
絵を描く過程を考えてみる。描画材を持って手を動かして画面の上に描く、そこに描かれたものは目の網膜で感知され頭脳に届く、頭脳は直ちに反応して腕の筋肉に動作を指令して、手を動かし画面に加筆する。それは更に視覚され、脳に伝わり、脳は反応し…と、このサイクルが反復される制作という旅となる。
このサイクルは考え方が変ったり、その時々の感情の変化に、また自然現象や社会的な状況のような外的な変化に対して、即応する可能性を持っている。そして同時に、具体的に実感出来る「もの」が出現するという即物性を持って可視できる旅となる。これらの要素を持ったこのサイクルはその直接性と即時性ゆえに、我々の想像をよりかき立てる。
版画について“Print making(版画) is image making(イメージ造り)”という表現を何時も自分に言い聞かせているが、その版画という過程の媒介性、すなわち、頭の中で想像されたものは版画工程を通して具体化されるという介在性が、版画表現を間接的にしている。故に、このサイクルをより客観的に見せてくれるのが版画の旅である。
まず「版」が造られ、その上に紙が置かれ刷られる、その刷られたイメージは左右が反転し、即座に客観性を与えてくれる。シルクスクリーンの場合は、イメージは反転しないが、スクリーンを通して刷られたイメージは手と筆跡を離れた客観性を見せてくれる。
更に、版画制作では行程毎に試し刷りをする。この試し刷りのプルーフを後に残して、前に進む。このプルーフは前出のサイクルの具体的な記録であり、制作の道程を目の前に広げて、そのサイクル、すなわち制作過程の指向性、感情の動き、個人的な習性の分析を可能にしてくれる。他の美術メディアでは次のサイクルは前のサイクルの上に施される為、前のサイクルの痕跡は失われてしまい、制作過程の分析は不可能なのだ。そして、版画はその過程でどのような領域に踏み込んで、如何に反応したかを客観的に、具体的に視る事の出来る唯一のメディアなのだ。
版画と云う乗り物
版画工房には旅の為の多種多様な乗り物が存在している。何処か知らない所に行く為に自分の新しい乗り物を発明出来る素材にも満ち溢れている。その乗り物に乗って行った先から振り返る。また、乗り物を変え、異なった先に行ってみる。その行き着いた先は以前自覚していた立地を遥かに超え、新たな領域に入った事を知らしめる。
1964年から一版多色刷りに乗った。その翌年はカラーリト制作で大判の石版に乗った。1968-71年の反体制の学園闘争時、学生とは対する側にいたが、版画は旧癖に捕われたジャンルと見え、ブループリント、コピーマシンだった。1970年代前半は、使い捨てられたジンク版をリサイクルし、その上に最も直接的なドライポイントを施した作品造りに乗った。この時代から現在まで続けている、深く腐食したアクアチントにワックスクレヨンで腐食止めした作品に乗っている。それは黒板の上に白墨の画面効果だ。その始めは、最も有効なイメージ・メイキングの場は教室の黒板だという考えで、白墨で描かれたピナール画廊個展作品からの影響だった。現在は液体グランドを使い、筆で描いている。
リト制作のために数限りない石版を研磨した。その過程で、石の表面の薄黄灰色の上に水と黒い研磨砂が限りないイメージとして浮かび上がり消えて行くのを見た。このイメージを紙の上に定着しようと浮世絵の雲母(キラ)刷りの方法を思い出し、スクリーンプリントで完成させた。この砂の作品には長乗りした。
「パントン・プロジェクト」は350枚のバリエーションがあり、エディション数は2、合計700点のオフセット・リトによる作品の複数性と制作のシステム化を試みる乗り物だった。
シュレッダーから出た小片紙を撒いたエンラン・シリーズ、和紙を使ったモノプリント「線外 インスタレーション」、同じく天井から吊られ両面から観られる和紙3mのモノプリント等もその時々に刷りを考案し、乗ったヴィークルである。
平面的乗り物
1962年、新しい出会いを求めてウィスコンシン大学の大学院に留学した。それはアメリカの版画ルネッサンスと云われた時期で、私は技術習得に専念した。その頃、デビュー作のエッチング発表直後のデビット・ホックニー、さらに、ヘイター・スタジオ(パリ)のカイコ・モティなどに会った。
1964年、次に行ったペンシルバニア大学美術大学院では、バウハウス思想と未だ熱気冷めず健在な抽象表現主義ニューヨーク派に遭遇した。1956年のジャクソン・ポロックの死の弔い合戦の如く、そこはその世代のアーティスト達の来訪でひしめき合い、まさにオープン・フォーラムとなっていた。私の主任教授だったイタリアのピエロ・ドラッチオなどのカラーフィールド・ペインティングの作家たちは、その中で「色彩こそが絵画表現のコアだ」と語っていた。そこに居合わせた一人、バーネット・ニューマンに『Who’s Afraid of Red, Yellow and Blue』(1966年作)があるが、この作品制作時に彼は僕のペン大のスタジオに来ている。この様な環境に啓発され、絵画の可能性の豊かさに目覚め、数限りない絵画作品を見たのだった。
しかし、 1960年代後半からは、それとは全く反対に、平面作品を制作する事、 絵を描く事が非常に難しい時期だった。私は膠着したベトナム戦争とヒッピー文化の中に居た。イーゼルの上にキャンバスを置き、筆を持ち上げる事は、旧癖に捕われた行為として罪悪としか考えられず、ブルドーザーで土砂を運ぶ作品作りを友人達と話し合った事を鮮明に記憶している。
キャンバスの平面から抜け出す事は非常に魅力的であり、永遠の可能性を持った前衛の広い領域がそこにある様に思え、コンクリートの広場に銀色のスプレー塗装をした作品、広い自然の中に白く塗られた木材多数を並べた作品等を試みた。
しかし、キャンバスから外での作品造りは、余りにも容易に、即座な新しさの効果が得られ、又その領域は横だけの広がりに感じられた。
1968年帰国。学園闘争と反体制運動の中の多摩美術大学で、日本の前衛作家、思想家達と交わり3年を過ごした。1971年の青山・ピナール画廊個展に、横長キャンバスでその長さ合計が100mの作品を展示した。加えて、建築設計図用のブループリント一巻き100mを使って版画作成し、また、当時出回り始めたコピー機を使ってのプリント作品を展示した。
1971年以後ペンシルバニア大学美術大学院 に帰って、近代主義が過去になった芸術・文化環境に浸りながらニューヨークで制作を続け、“Less is Bore”の提唱者、建築家のロバート・ベンチュリと会議などで同席した。この自分史の経過を私は「Less is MoreからLess is Bore迄の時間」と呼んでいる。
この様な経験から、既存の絵の概念を否定した絵とは何かという自問から始まり、以後、私の作品制作はキャンバスの作品、紙の上のドローイング、版画の平面のメディアの中で、その可能性を求める事とした。この町田市立国際版画美術館での「中里斉展」開催にあたって 版画作品をそのメインにしたことは勿論である。
しかし、同時に少数のキャンバス作品、及びかなりの数のパネルに描かれた絵画と紙の上のドローイングも含めた。そして、ドローイングと絵画作品が如何に版画制作に作用し、あるいは、逆に版画制作の経験がどのようにドローイングと絵画制作に影響しているかを検証出来るのではないかという自分自身への問いも含めた。
背丈を超えるキャンバスの平面から小型のパネルに、 大きな紙の上から薄い和紙に、 堅い表面から弾力のある表面にと制作の支持体を変える事には、色々な異なった乗り物に変えて旅する楽しさがある。 これらの展示作品はその旅の道すがら通った足跡と云えるだろう。
「線外」
既存の絵の概念を否定した絵とは何かと上に書いたが、これらのヴィークルに誘われるその旅の目的地は線の外側だろうと考えた。朝スタジオに入り、制作にかかる。何とかして新しい可能性を探ろうと右往左往する。それは既存の、既知の世界の中での右往左往でしかなく、そこには真の可能性など既に存在しないのではないのか。それでは、この既存の、既知の世界の線の外に行かなければならない。この願望を現した作品シリーズを『線外シリーズ』と題した。1980年代後半からだった。勿論、「線外」はヨーロッパ前衛が達した領域に、少なくもその100年前に行き着いていた博多・聖福寺の仙涯(1750-1838)の名前に掛けて命名した。
『線外シリーズ』制作には仙涯が使った○△□のモチーフを借用した。ロシア構成主義、バウハウス以後これらプライマリー・シェイプは近代主義時代の常套語となったが、敢えてこれらの形の普汎性、不偏性ゆえに、又、それらが持つ近代主義への言及性故に、制作語彙として使える最適のモチーフだった。
政治情勢の不安で実現しなかったが、イスラエルの美術館から個展依頼があり、その条件を満たすために紙0.76m巾の横長の作品を作った。その中の一作品は横の長さ10mが5枚続き、全長50mになる。 前出の青山・ピナール画廊の個展「100mのペインティング」は、巾90㎝の横長のキャンバス十数点を二段掛けした。1982年、東京画廊個展で巾1.22m、 4~6mの 横長キャンバス作品を7点発表した。 2000年、文化庁在外研修芸術家としてペンシルバニア大学の私の所で1年を過ごした間島秀徳氏が滞在中、横長の紙に制作した。巻いて運搬出来る合理性があった。このフォーマットがイスラエルの美術館の展示条件、運送費節減を満たしたのに惹かれ、自身でも始めたが、矩形の枠決めを外れた制作に即座にのめり込み、長旅をした。
そして、ある事を発見し驚愕した。それは、記憶の最も奥底にあった原風景、昭和の初め、母親の実家の町田街道にあった紺屋「なるとや」の裏庭、伸子張りされた染め物の長い列と列、その何処かにいる母親を捜して潜って行く風景だった。1962年、前衛芸術を体験しようと留学、以後前方指向を続けた自分が昭和の初めに逆行の旅をしたのだった。これは「線の外の領域」と 原風景とが繋がる体験だった。
9・11
2001年、新世紀に入り制作を続けられる事を何かの形で表わそうと、年の数の作品数を制作する「2001点プロジェクト」を案出した。そして『線外シリーズ』で始めた。プロジェクト開始早々に9・11同時多発テロ事件に遭遇した。ニューヨークの世界貿易センターでは2700人の焼死、その悪臭の中で制作を続けるのは困難だった。 毎日スタジオで制作している事は果たしてどのような意味があるのだろうか、どのような社会還元が出来るのだろうかと自己懐疑に陥った。勿論、制作語彙を極度に絞った線の外の絵画の可能性を求めた「線外シリーズ」の思想背景に同時多発テロ遭遇の目論見はなかったし、その事件が制作の指向を左右すべきかさえ疑わざるを得なかった。
平面作品を制作する事、 絵を描く事は、子供の頃から始まり、現在に至る本能に近いところで継続している行為である。全ての感情と思考生活の拠り所と言える。しかし、その継続は記憶に鮮明に残る三回の絵が描けない、断絶とも言える時期 を経た。
その最初は、自分の人生は短いと感じた空襲下の日々と戦後の空腹の時期だった。社会が安定するに従い忘れていった。戦前に買溜めした「さくらクレヨン」で描いた絵には小学校で「不可」を付けられた。この採点が気になっていて、最近、探し出し見直した。荒いタッチの何かを叫ぶ様な絵だと再発見した。
次は、反体制学生セクトの批判を浴びて芸術家としての意味付けを考えた1968-71年だった。この時期はある考え方を聞き及んで、制作の根拠を見出し克服出来た。そして、この困難の経験は以後の制作の指向に大きな影響を与えた。彫刻家カール・アンドレ、中原祐介氏出席の封鎖中の多摩美大自主ゼミ、針生一郎氏の「芸術が廃止される事はあり得るか」との質問に対して、アンドレの答から「スタジオは想像の場、歴史の原点」と理解したことだった。
最後の時期は9・11、ニューヨークで同時多発テロに遭遇した時期だった。この経験で、制作する事が観念的であるだけではなく、より社会性を意識する事に繋がった。
「単子論」
作品を数で計る事は一見単純な事のようで複雑だ。大きなキャンバスの作品も一点、小さいドローイングも一点とするには矛盾がある。しかし、この様な社会情勢と内的不安の中、 急き立てられるように、支持体の準備と作品収納の合理性から49 × 61 ㎝のパネルを当初500枚用意した。そして、『線外シリーズ』で始まったこのプロジェクト名は、次第に新たな考えに惹かれる事によって、そのシリーズ名を変えなければならなかった。
先の合理性から割り出したパネルの支持体が有効性を発揮した。 制作点数を重ねる中で、限られた語彙、すなわち形体をその要素にして作品に緊張感と存在感を持たせる作画行為、これは主要な作画目的ともなったが、そこに注目し、これは画面上に「小宇宙」を造る事に他ならないと考えられた。ミクロコスモス性を持って初めて作品が存在する理由が生まれると感じ取った。
そして、次に浮かんだ連想は古代ギリシャ哲学者達が宇宙の仕組みを理解し、総括しようとした宇宙論が、彼等は風景画ならぬ「宇宙画を描いた」と思えた事だった。更に、これ以上分割出来ない形体、また限られた数の形体の集合でなされる形象、すなわち平面の小宇宙である『線外シリーズ』作品は、ライプニッツ(1646-1716)の単子論(モナド論)の具現化に思えた。モナドは更に分割の出来ない単純な実体であり、それが集まって世界を形成すると説明される。
2004年後半から「2001点プロジェクト」に『モナド・シリーズ』というシリーズ名が加わった。そして、『モナド・シリーズ』に変えて制作する事は、『線外』のイニシアチブである仙涯の三つのプライマリー・シェイプのみを自分の絵画語彙として依存する必要がなくなり、考え得る単子的単純な形体を用い、また、その形体自身の発明に絵画的可能性を求めさせた。
「黒雨」
2007年夏、広島の資料館でマンハッタン・プロジェクトに関しての様々な米政府間の書簡を読んだ。翌年、広島の原爆中心地に近くの画廊から、一年後の2009年8月6日オープン計画で「広島」をテーマにした個展開催の招きを受けた。その夏の数週間を、ある瀬戸内の島の友人宅でどのような作品を描くべきか構想を練った。資料の収集から始め、広島原爆写真の数々、被爆者が描いた絵から絵、丸木夫妻の原爆図等の作品等を繰り返し見、広島の地図を眺めた。
自分の歩んだ制作の方向性は、1960年代中頃から今迄、「絵を描きたいと云う欲望」と 「全てのリファレンシャル・イメージを否定した」の間の葛藤から導かれて来た。これは最後の二面性なのだが、既成概念から抜け出た領域に行きたい、そこに行く為に先ず画面に表現される形体の言及性をなくそうとし、制作語彙のニュートラリティ(不偏無機性)を求めて来た。しかし、これ迄続けた抽象的絵画語彙の領域で、広島原爆資料館であの書簡類を読んだ時の憤りを如何に表現すべきか。新たな方向性を模索しなければならないと考えた。
その秋、『黒い雨』シリーズというテーマを選び、モノクローム表現に決め、制作に入った。が、11月アメリカ発サブプライムローン破綻からの連鎖影響でこの画廊の支援会社が破産に追い込まれ、翌年8月の個展開催は中止となった。
2009年春、『黒い雨』シリーズは100点が完成した。そして、フィラデルフィアのアメリカ独立記念館の近くの画廊から個展開催の要請を受け、独立記念日の前夜7月3日オープンした。更に10月ニューヨークの画廊で『黒い雨』第2回展を開催した。
双方とも、壁面展示には縦58cm、横61cmの小型の画面多数を縦横に並べ、続き絵の形式で観る表現にした。それは映画のフィルム、一コマ一コマを観るアイデアとなった。
芹が谷に帰る
町田市立国際版画美術館の所在地、芹が谷は急坂の森に挟まれた田圃だった。森と田圃の境の両側には小川が流れ、そこ彼処に湧き水が出て、我々子供達の乾いた喉を潤してくれた。近くにあった町田唯一の幼稚園から、芹が谷の向こう側の丘の上にあった芝好園に遊びに行った。父は忠生村(現町田市)境川出身の国鉄職員、当時写真が趣味だったが、その時に撮った記念写真が今でも残っている。芹が谷は戦時中・戦後の食糧難の時には、田螺、沢蟹を捕ったタンパク質の供給源だった。確か昭和30年代中頃まで、野兎を追って駆け回った。
1990年のある日、1971年以来教えていたペンシルバニア大学の僕のメールボックスに、分厚い一冊の展覧会カタログが入っていた。その裏扉にRuth Fineとペン書き署名があった。ペン大美術大学院は母校であり、Ruthは僕より二学年上、当時、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーの現代版画と素描課学芸員であった。このカタログは彼女がキュリエートし、町田市立国際版画美術館で開催された「ジェムナイ工房、芸術家とアルティザンの協力」展のカタログであり、彼女が帰国後、僕のメールボックスに置いて行ってくれたのだ。ここに初めて自分の二つの故郷、町田とペン大が結び付いたのだった。そして、この自分が育った地に建っている美術館で 作品を発表したいという気持ちが募り、今回多くの人々の協力を得てこの個展が可能になった。
ここに、協力して下さった方々に深く感謝致します。
2010年1月15日
中里斉
中里斉の麗しきポジション
ある作品を語ろうとする時、私たちが念頭に置くのは、作品がいつ制作されたのか、またどのようなイズムに属しているのかという点であるに違いない。時系列的な位置付けと様式的な分類が作品の理解の前提をなすというわけである。しかしそれと同時に、いやそれ以上に重要なのは、その作品がどこで制作されたのかという問題であるように私は思う。優れたアーティストたちは、自らが身を置くべき場所を、おそらくは本能的にわきまえているのだ。彼らは制作のための社会的、文化的な環境を、いわば一つの宿命のようにして選択しているのである。
中里斉が「私の作品には具体的な生活体験描写などは見当たらないが、それらは生活の中から創られたものであり、自分の感情の拠り所なのである」と述べているのは、その意味からもきわめて興味深い。たしかに中里の作品に一貫しているのは、一見、いかなる風土的なものの反映を感じさせない徹底した抽象性である。彼にとって造形とは普遍的な言語であり、生まれ育った東京の郊外の自然や日本の美術大学で直面した学園闘争、アトリエを構えたニューヨーク、あるいは長年、教職にあったフィラデルフィアの街などを思わせる要素はまったく見られない。しかしなお、それらは“生活の中から創られたもの”であると彼はいうのだ。
このような造形言語としての普遍性と彼個人が身を置いてきた環境は、はたしてどのように関わっているのだろうか。普遍的な価値を追求するために、彼はなぜ人生のある時期に日本を離れアメリカを制作の場所として選ばなければならなかったのか。出自の文化とペンシルバニア大学、そしてニューヨークは、この画家にとってどのような意味をもっているのだろうか。
そう、端的にいおう。彼にとっての移住とは文化的な重層性を身をもって体験することであったのだ。そのことが、中里斉の世界の普遍性の決定的な基盤をなしているのである。これはなにも逆説ではない。移住とは過去との断絶ではなく、異なった文化同士の出会いを不可避的に意味する。中里にとってのその出会いとは、双方の文化を批評的に参照することによる新たな造形言語の創出に向けられた営為であり、そこにこそ単なる折衷や加算ではない、このアーティストならではの表現の可能性が浮かび上がってくるのである。
具体的な例を挙げれば、たとえば≪線外≫と題されたシリーズがある。彼が渡米した1960年代の前半は、ニューヨークの抽象表現主義の威光が揺らぎつつあり、フォーマリズム的な意味での絵画空間の普遍性が疑われ、ポップアートやミニマルアートが台頭してきた時期であった。中里もまた単純明快な色彩と形態による、ミニマリズムの影響を受けた広い意味でのカラーフィールド・ペインティングに自らの資質に呼応するものを見い出すことになったのである。
時代の趨勢としての“Less is More”の思想は究極的にはモノクロームの巨大なカラーフィールド(色面)に行きつくことになるのだが、しかし中里にとっての“Less”は必ずしもそのことだけに自足しうるものであったわけではないともいわなければなるまい。彼はまたドローイングを重視する画家であり、“Less”とはまた線による表現の可能性の問題でもあったのだ。ダブローの色面の中にしばしば幾何学的な直線が、ドローイング的な手書きのニュアンスを宿しながら引き込まれているのは、同じ単純さを無機的なハードさではなく、どこか日本的、東洋的なものに通底する柔らかな感覚で捉え直して見せているように思えるのは注目すべき事実である。
1980年代の後半に始められた≪線外≫のシリーズは、そのような彼の文化的な重層性を明快に示すものであろう。分割する線、輪郭としての線、あるいは自立した線という西洋絵画の中で規定されてきた線の概念の“外”に出てみよう、線を否定するのではなく、そこに別の可能性を模索してみようと試行するうちに自ずと行き着いたのが仙崖の禅画であったのだ。線外=仙崖の語呂合わせは、欧米近代の“線の外”を見れば、そこに故郷の仙崖がいたという、二つの文化の接点に立つ彼の自己批評の眼差しのユーモアをはらみ、優れて理知的な資質を持つこの画家に潜む人文主義的な(語呂合わせついでに言い換えるなら“文人的“な)側面をうかがわせるようで興味深い。
ともあれ○△□だけを描いた江戸後期の禅僧の軽妙洒脱な画面に、中里はシュプレマティスムやミニマリズム、コンセプチュアリズムにはるかに先駆けた、自らの出自の文化における近代主義的な造形言語をアメリカの環境の中で再発見したのである。いやそれを近代主義というのは事後的な規定であって、彼が立っているのは多元的である文化に通底する価値がありうるという、より大いなる視野での線との“出会い”のポジションであったというべきかもしれない。事実、彼自身の画面に登場する○△□は、ソル・ルイットやケネス・ノーランドのそれのドライさとは異なって、人間味のあるふくよかな感触を宿しているのである。(実のところ、そのソフトさは線ばかりではなく、卓越したコロリストである彼の色彩感覚についてもいえるのだが。)
中里のもう一つの特権的ポジションは、常に絵画と版画を並行して制作してきたという立場である。ここでも両者は別個のものではなく、深く呼応する関係にある。彼にとっての言語的な二重性が「一つの言語表現を、もう一つの言語で検証する」関係にあるように、版画と絵画の制作もまた相互に批評的に作用し合っているのだ。絵筆やローラーによる制作の直接性と版を介在させる制作の間接性が、主観的な要素と客観的な要素、即時的なものと計画的なプロセスを共存させた平面の空間の豊饒さを、彼の画面にもたらしているのである。
中里斉の麗しきポジション。今回の回顧展で、私たちはそうした特権的な画家の、理知的にして、またふくよかな世界を改めて印象付けられるに違いない。
建畠晢
中里斉の生活と芸術
中里斉の生い立ちをわたしは直接知らないが、彼が今度はじめて回顧展が実現される国際版画美術館のある東京都の西郊ヘミスフェア[hemisphere]町田の、こどもたちが野兎などを追いかけた森や田圃の両側に、戦中戦後は田螺や沢蟹などもとれた小川が流れる芹ヶ谷で育ったことは重要だろう。彼の父親は中曽根首相の分割民営化以前、官営企業中もっとも堅実といわれた国鉄の職員で、写真撮影を趣味とし、母親の実家は町田街道に臨む紺屋だから、染め物の色彩は彼にとって忘れがたくなつかしい要素だろう。しかし、これらの体験や記憶に表現者として精神的な核を吹きこんだのは、当時町田市の一画に急速な拡大発展を残した桜美林学園の、キリスト教思想以外にありえなかった。
こうして中里斉は、自然に桜美林高校を出て、多摩美術大絵画学部油科へと進むことになる。ところが、制作の技法の研究と表現の実験への慾求から、同美大卒業後、1962年思いたって留学し、アメリカのウィスコンシン大とペンシルヴァニア大の大学院で版画研究に集中したから、かなりスケールの大きい変革が行なわれたことが分る。今、アトランダムにその過程に含まれた課題だけあげてみても、(1)内的イメージを短冊状に配列することへの不満、(2)アメリカの「ハードエッジ」とよばれる色面抽象への興味、したがって版画を刷る紙の材質感と色彩への熾烈な関心、(3)ベトナム反戦運動がアメリカのヒッピー化した若者たちによびおこした自由闊達な精神から、優美な平面処理としてすでに商品化された表現への拒否、(4)同じころ実用化されはじめたコッピー機を使うことなどの、従来の版画規範への依存から疑問への変革、(5)広島原爆資料館で得た原爆投下直後の視覚的資料、アメリカ政府のマンハッタン計画資料などが、中里の戦争把握や色面抽象の原点となる「黒い雨資料」として探求蒐集され、ついに近年ニューヨーク、フィラデルフィアなどのいくつかの画廊の個展で発表された。
わたしが中里斉と直接知りあったのは、1968年多摩美大の教員同僚としてである。当時この大学には日本の前衛芸術をリードする斎藤義重がいて、わたしは御三家といわれた三人の批評家のなかで、東野芳明、中原佑介に続いて斎藤に誘われて専任教員となった。実技教員でも斎藤が声をかけたのは、高松次郎をはじめ最高のスタッフだった。そのほかに関根信夫、小清水漸、菅木志雄ら斎藤教室の卒業生たちが助手のようにたむろしていて、彼らは各自の制作コンセプトを問いつめた上、修飾や抒情の要素をとり除くと、これで徹底してやれという、斎藤の教育法を絶対的に信頼していた。
そこに1968年12月、多摩美大でも学生による学園のバリケード封鎖がおこった。わたしが同大専任となったのは同年4月だが、その前期はヴェネツィア・ビエンナーレの日本コミッショナーをひきうけていて、パリの「五月革命」がド・ゴール大統領への信任投票で敗れたのち、余憤をいだいてヴェネツィアに殺到した学生市民層に警官隊を対峙させたことに、わたしたち数人のコミッショナーが抗議声明を出した。この様な事情の中、その前期はあまり授業に出られなかった。日本での無党派学生連合「全共闘」の蹶起も、日大や東大では半年も前に話題となったのに、ここでは季節はずれのようにおそい。ただ全共闘系の運動よりも「美が主観的にしかとらえられないとすれば、さしあたりそこがわれわれの主戦場だ」とカント美学の主観性を逆手にとって、多摩美大の堀浩哉や彦坂尚嘉から他大学・学園の美術学生にもよびかけた。「美共闘」の方がわたしには興味深い。中里にとってもこの多摩美大専任時代は、斎藤義重を中心とする日本の前衛芸術との交流期で、わたしの企画による青山・ピナール画廊での、横長カンヴァス10数点を二段掛けにした《100メートル絵画》や、中原佑介コミッショナーが東京ビエンナーレに招待した外国作家中、アメリカの元枕木技師カール・アンドレが鉄道の枕木を会場に敷きつめて観客にその上を踏ませ、〈美共闘〉によってその平明率直さが顕彰されたのも焦点となっている。
そこで1971年の中里によるペンシルヴァニア大再訪は、彼に新たな制作と生活の可能性をもたらした。ニューヨークにスタジオを持った。一方、 移民の父祖の一人、この大学の創立者でもあるベンジャミン・フランクリンの彫像を彼はまずめざしたように、あくまで一市民の自覚にもとづいて、美術作品を個人のアイデンティティに根ざしながら、より大きな社会的コミュニケーションを実現する場とするため、美術大学院の教育内容の模索・検討・変革に乗り出した。こうして絵画・彫刻・版画の三専攻に加えて、クレイ(陶土)とデジタルの両コースを含むミクストメディア専攻を新設し、特に〈ヴィジティング・アーティスト〉の部門を重視してそこに日本の文化庁在外研修生やロックフェラー財団招待の各国若手作家を集め、彼らの構内展覧会と学部カタログ、機関誌紙などを総合し、教育の流動性と多角性のさまを記録して有効だった。
私生活では中里が一時結婚していた白人女性と別れたのち、再婚した日本生まれ米国育ちの女性と、TSAの英語教師や画家の翻訳で前から知り合いだったが、同時通訳のプロとしての自立性とベター・ハーフとしての協調性を両立させながら、まことに緊密な夫婦関係を築いている。1990年代に中里がペンシルヴァニア大美術大学院の学部長に任命されたのは、こうした教育変革をリードしてきた中心として当然であった。2006年、彼はこの大学を退職したが、翌年春と秋、大学内とフィラデルフィア市内で行なわれた盛大な記念展をみても、同大卒業生や各国の訪問美術家たちにその仕事が確実な影響を残したことがわかる。こうして中里は今もニューヨークとフィラデルフィアを本拠として、悠々と成熟した制作の実現に精出している。
針生一郎、前日本美術評論家連名会長、福井県あわら市立金津『創作の森』館長、丸木美術館館長)
斉と知り合って
中里斉と初めて知り合ったのは1994年、ペンシルバニア大学で美術大学院生の学期末批評会が行われていた最中のことだった。 この期末毎の批評会は、当時も今も、参加者全員にとって心身を極限まで磨り減らす苦行である。三日間連続して、一日八時間にわたり、教授、客員アーティスト、美術評論家、美術館学芸員たちにより構成されたパネルが、プログラムに在籍する各学生の作品を、公開で、まさに“解剖”する。学生は一人ひとりその学期の作品を批評パネルと他の全学生の前に並べ、作品の後ろに立って自分の作品の出来をパネルメンバーが論争するのを30分間拝聴する。痛手を受けずに生き残る学生はほとんどなく、その週末には、若いアーティストが少なからず泣かされた。この批評会は、パネルに参加する若輩メンバーたちにとってもトラウマになるぐらい衝撃的な体験である。パネルの批評者のコメントも、評価対象作品と同じくらい(他のメンバーから)懐疑的に分析される標的となるので、発言はいずれも、どう転ぶか分からない危険な賭けのようなものなのだ。それ故に、この修羅場の真っ只中に安定化をもたらす斉の存在に私は2倍感心したのだった。斉のコメントは丁重、直感的、寛大、かつ全くオリジナルで、常に乱場に光明と平穏を呼び戻していたのが斉だった。私は斉や彼の同僚と共に教鞭を取ったことから、学生時代に習ったことよりも多くを学んできた。
その後も長年月にわたり、教職にあり同僚である斉に感銘を受け続けてきた。着実に、そして確固たる意志を持って、斉は教師としての自らの使命を追及し、自分の価値観を信じて動揺せず、学生のニーズに献身的に尽力した。 斉の人間性について私が先ず感動したのは彼の礼節さであったが、その資質が、このアーティストの作品への適切な手掛かりとなった。もし、厳密な抽象性に倫理的次元があるとすれば、斉の作品はその内容と制作の実践両面で極めて倫理的である。版画家として彼の革新性は教師としての貢献度を形作り、またスタジオに於いての驚異的な作業倫理を課すことは、何世代にもわたって彼を慕う学生たちを発奮させ、より多くを求めさすロール×モデル(規範)となった。私は1970年代初めに斉に学んだジョン×ウルジーから次の話を聞いて感銘を受けた。「(スタジオでの制作は)ほとんど禅の瞑想になっていた。正しく水を吸収した紙の感触や重さ、エッチング版のインク拭き取り前の正しい温度、正しく拭き取られたときの絹の様な手触り。6メートル離れたところから「版が正しく拭き取られてない」と言われ、「どうして分かるのですか」と聞き返すと「音を聞けば分かる」と返答されたという。
斉のスタジオを訪れるたびに、いつも、アーティストであることが何を意味するかを、その言葉本来の最も根本的かつ厳正な意味で思い知らされる。彼の手作業でモノを作ることへの献身は、このアーティストであることが意味するものの一つの次元を形成しているが、より根底的には、斉の芸術性は、彼のモノ作りとより広い見地からの精神的ビジョンとの間の断つことが出来ない繫がりと、そして妥協することなく自分の想う美を追及することに終始献身している彼の生活そのものにある。 彼の巨大なスタジオは、細長い大きな作業テーブルで斜めに分断されている。部屋の全周に据えられた棚やキャスター付き収納カートに山ほどのキャンヴァスが複雑に入り組んで整理されている。ファイル用引き出しや箱は厚紙フォルダーが溢れんばかりに詰まっている。どのフォルダーにも、版画やドローイングや絵画がぎっしり挟まれ、作品と作品の間にはグラシン紙が挿入されている。斉のスタジオに座って、彼の休むことのない想像力と疲れを知らない手から生み出される多産な作品を次々見ることは、思想と行動、制作する事と存在する事の境界を取り払うことに費やされてきた道程に接することである。
私は斉の創造に向かうイマジネーションの優雅な回路(サイクル)に強く惹かれている。一つの鋭い還元的なイメージが次のイメージを先導し、それが次のイメージへ、さらに次へ、次へと進む。展開される論理(ロジック)が目に見えて明らかなこともあれば、アーティストが何気なく落としたヒントから突然見えてくることもある。 四角が丸につながり、三角に結びつく。長方形が四角の上に載り、四角の前に来る。赤の形が黄色、黒と緑で繰り返される。紙面で一連の三日月が縦の線を昇り、次の反復で突然ひっくり返って水平(横)にぶら下がる植物の鞘となる。 他のアーティストの作品には見られない論理と版画工程の可能性が、斉の版画では、合理的に、それでいて想像力豊かに、潤沢に、あふれんばかりに展開している。彼の制作の中で、実験と多産生が美の哲学のレベルに発展する。どの形も最終的な言葉にならず、どのイメージも孤立したものとして捉えられない。どれもが次に現れる不測の兆候についての憶測を喚起しているのである。斉の版画シリーズに目を通していると、私はいつも1、2点、自分の気に入った作品を無言のうちに選んでいて、その作品に身をゆだねてじっくり鑑賞する機会があったらどんなに楽しいかを想像している自分に気が付く。より正確に言えば、斉の1点の版画が架空の鑑賞者に与える影響、つまり、その作品に多数の従兄弟が存在することを知らずにその1点にのみ遭遇し、アーティストが望むヴィジョンの凝縮として受け入れることができる観賞者にどのような影響を与えるのかを想像しようとしているのだ。その1点の作品はこの観賞者に心底満足さを与えることだろう。斉の版画は、各1点1点が独立した存在感を持つ作品となる素地を持っている。どの版画1点も完璧かつ自立した主張なのだ。しかし、私は意図的にその面から斉の作品のことを考えているわけではない。私はそれらの全体性、版画、ドローイング、絵画、スタジオ、棚、段ボール箱、カート、そして作品の巻かれた束を見る。彼自身から切り離すことのできない幾千もの絵画、版画、ドローイング、保管されている大量の傑作総目録、そして瞑想の爆発する創造の全てを。
外から見ると、これは理論的知識にまさって経験と悟性を重視する感性による作品として裏付けられるが、うわべだけでそのコンセプトを理解すると明らかに禅のようなものに思われる。しかし、斉の制作過程に対するこのような考察は、逆説的な矛盾(アンビバレンス)を引き起こす。作品を包括して哲学的な基盤の上でとらえることにはエキサイティングな満足感がある。一方、アメリカで制作するアーティストをその民族的遺産に基づいて無邪気に異国情緒化することは、特に西欧の文化的盗用の歴史が非常に侵略的で帝国主義に近いことを考慮すると、危険なのは明らかである。斉自身にとって、そのような外的影響は、如何なる優れたアーティストや工芸家にとってそうであるあるように、せいぜいスタジオで無意識のうちに現れるものだと思う。幾千時間もの準備によって鍛えられた体が、勝手に動くのである。
斉の版画、ドローイング、絵画を特徴付けているのはそれとなく遊び心のある好奇心であるが、これは生まれながらの偏屈癖の特徴でもある。彼の作品本体は、過去への敬意を表しているが、その一方で、過去と終わりのない論争をしているようでもある。斉が表現する幾何学的で有機的な線は、彼独特のアイデンティティが彼の制作上の実験と同化して、最終的に作品の個性となっている。それは優雅な技(わざ)であり、これらの複雑かつ幾何学的作品は、時間と空間を貫いて制作された、このアーティストの壮大な自画像でもあるのだ。
このアイデンティティと形との間の継続的な振動は初期に始まっていた。斉は、子供のときに自分の名前の漢字が左右対称であることにいかに感動したかを私に説明してくれた。彼の漢字名が左右対称であるため、クラスに張り出された成績順位の中で非常に目立った。クラスの上位であったらこの様なことに気がつかなかったろう。しかし、成績が良くない時同じように目立つため、必然的に、恥ずかしい思いをしたという。恐らくそのように抽象的な線とテキスト(文字)の意味に強く魅せられていたので、過去の禅僧、特に臨済宗の禅僧仙厓の作品に引かれたのだろう。仙厓が18世紀に遺した洒脱と機知に富み、意識の拡張によるドローイングは、現代の抽象芸術とコンセプチュアル×アートの運動の到達点に百数十年も以前先取りしていたものである。仙厓のイコン的な三角形や四角、円形の表現は、これらの形を平凡なものにしてしまう恐れのあったロシアの構成主義者、バウハウスのデザイナー、ポストモダンのリサイクラー(再生利用者)達よりはるか前になされた。斉は、この導師の、遠隔で深淵な、近代的で風刺性のある奇妙な合流点をデコンストラクトし、彼のアイデンティティと制作の実践に取り込んでいった。仙厓は、「崖の上の僧侶」の意味だが、その同音異義語の「線外」という言葉で斉が制作に取り入れている概念の1つである。仙厓のような巨匠にとって、生活が哲学、作品と離れているという概念は思いもよらぬことだった。そして、それが斉にも当て嵌まることなのだ。
斉は、このカタログ用に執筆した随筆の中で、彼のこれまでの長い生涯の中で3回だけ制作を続けることが困難だったと書いている。その最初は、彼の子供時代である第二次世界大戦末期からその直後で、人生そのものが寄る辺なく、芸術はそれにもまして頼みにならないモノのように思われた。次はそれから30年後、日本の教師が1960年代の政治及び社会混乱の渦に巻き込まれ、抽象的な政治的主張の中でくだらない美的選択への忠心を誓われされた時だった。芸術はエネルギーを消耗する怒りの前で弱々しく思われた。そして最後は目の前で世界貿易ビルの同時多発テロ事件を見える距離にいて、自宅のスタジオで巻き上がる風を感じた時だった。皮肉にも、斉はその当時2001年に2001点の作品を制作するという、普通あまり例のないプロジェクトにとりかかっていた時で、文化と文明に対するこの凄惨な攻撃に頓挫させられた。それは短い間ではあったが、再度、芸術を意識的に選んでいない(天命としている)アーティストにとっても制作を続けることは難しかった。
中里斉は、啓発された領域の中で多作な生涯を築いて来た、が又、この自得した領域のシステムの虚弱さをも直接に見て来た。 この最終的なバランスは、然ることながら生ることに傾心し、彼の人生と作品群は特有な世界を具現化し、それは我々の精神を生き生きとさせ、我々の手を介して我々の心から世界に流れ出る美を創造させる。
2010年5月5日
マット×フリードマン、芸術家、文筆家、パーフォーマー、ペンシルバニア大学美術大学院ヴィジティング×アーティスト
イメージの復権と増幅―中里斉展のための覚書
「中里斉展 モダニズム・ニューヨーク⇔原風景・町田」は、基本的には中里斉自身が展示プランを立て、出品作品を選んだ展覧会である。創作と発表活動が現在進行形の美術家の多くがそうであるように、中里もまたこの展覧会をスタンダードな回顧展の形式にはしていない。創作活動を開始した1960年代の作品の出品をひかえるとともに、70年代から90年代にかけて制作した作品でさえも、年代順に6点、18点、4点と少数の出品に留めているのである。しかもそれらの作品の一部を、展示空間を大きく占める、多数の2000年以降に制作した作品の中にさりげなく挿入して展示するという構想に至っている。言ってみればこの個展は、中里斉の創作活動と表現の現在、そして思考を見せるという性格が与えられた展覧会なのである。
しかしながら中里は、おそらく自分にとって、はっきりと「過去」のものと見なせる作品を最小限出品することで、時代ごとの表現内容とその時間的な変化を垣間見せようと努めている。そうすることで、制作が現在進行形の状況にある「今」の作品またはそのシリーズの現代性を浮き上がらせようと試みている。その一方では、70年代初めから現在までの作品に通底する問題意識や主題を示唆し、探らせようとしている。いずれにしても作品の変化を知ることは、中里が向かった表現の地平と彼の思考に近づくための手助けになるはずだ。
そのためにまず言及すべき出品作品は、「モア・イズ・モア」のコーナーに設置された《400mの白い線》である。この作品は、1971年に東京・青山のピナール画廊で発表した《100mのカンヴァス》を紙上にリメークした作品だからだ。その頃中里は、60年代のアメリカで展開したミニマル・アートやプライマリー・ストラクチャーに続くようにして、さらにその後出現したコンセプチュアル・アートに接近しながら、主観的・感覚的イメージを描き出すことから離れて、平面の上に直線を引くという極めて基本的で単純な創作「行為」を通じて、平面作品の本質を思考するという制作を行っていた。そうした思考の跡を留めた《400mの白い線》は、現在進められている制作と比較するうえでも、本展覧会にはなくてはならない作品のひとつだ。
ここで、その後の中里の思考と作品の変化を明瞭にするためにも、70年代初めの制作に触れた中里のことばを再録しておこう。
現在、私の制作の原点はイリュージョンのためではない、事象としての物質それ自身でもない、平面そのものとしての平面にあり、二次元の本質的ストラクチュアへの思考にある。そしてこの平面における行為は最も単純な、最も普遍的な作業として直線を引くことに限定している。注 [1]
一時、絵を描くのにイメージというものに全然興味がない時代があったんです。そうすると何が残されているかというと、線を引くことと塗ることぐらいだと。それで一番初めにやったシリーズは、10年ぐらい前ですけれども、線だけのシリーズなんです。注 [2]
さて、中里の思考の変化は、以下の発言に見られるように、70年代後半には既に明らかになっていた。
ぼくはイメージをもっと考えていこうと思っているんです。やはり絵を描くということはイメージをつくることですよね。注 [3]
この発言には、一旦拒絶したはずのイメージへのこだわりが表明されている。そのこと自体は誰にも容易に分かるだろう。この思考の変化は、確かに、制作に大きな変化をもたらしたといえる。しかし、ここで問題なのは、イメージの問題がどのように制作に展開したのか、ということである。そのことを考えることが、とても大切だ。そこで気がつかなければならないことは、中里が「イメージをつくる」と言っていることだ。このことばの意味を考えると、それは何もない画面に線や面、形を描き、色を塗ることで、そこに何らかのイメージを吹き込むということに他ならない。別の言い方をすれば、作品を見る人が何らかのイメージを得ることができるように、あるいは知覚するように、何もない平面にゲシュタルトと呼べるような一塊の像をつくるということである。
70年代後半の中里のこうしたイメージ・メーキングの仕事は、きわめてミニマルな傾向にあることが特徴だ。それは制作に必要な要素が最小限にとどめられているからである。中里の側に最初に用意されているものは、線と幾何学的かたち、モノクロームの色などの限定された基本的造形要素、カンヴァスや紙といった支持体、そして描画に必要な道具だけなのだ。記憶や感情、モティーフといった、容易にコミュニケーションを成り立たせる具体的イメージなどは、初めから完全に排除されている。ミニマルな傾向の抽象画がつくられたのは、このような厳しい制作条件を課してイメージ・メーキングに向かった結果なのである。そこにつくられた像は、まさしくゲシュタルトと呼べるものであった。ただし中里が求めたのは、「緊張感」を与えられた、美術作品としての「強力な、ゲシュタルト的なイメージ」注 [4]であった。
複雑な制作工程を要するためにさまざまな道具や材料を使うとはいえ、版画制作もまた、考え方の基本は同じだ。《Kerr》という題名を付された銅版画や、「アクアチント」の章に挿入された《アエ》《アイ》はこうした仕事の産物である。そしてこの仕事の延長線上に、80年代から現在までの版画をふくむ紙の作品群―「レリーフ・インキング」「300ポンド紙」に組み入れられた「線外シリーズ」「空気うけ」「パントン・シリーズ」が制作されている。ただしこれらは、厳しい条件を課して制作していた70年代後半の作品に比して、緩い条件のなかで制作されていることが明らかである。色彩や形態、描画方法、構図、材料の選択・導入に解放性が認められるからだ。さらに、イメージ・メーキングという過程に、かつては禁じていた中里自身のイマジネーションすら投入されてきているように思われる。
こうした制作の変化は、とりもなおさず中里が、実世界とは別の平面という二次元の世界を集中的に思考して絵をつくる美術家である一方で、風景や日常の出来事、政治や社会、国際情勢に関心をいだく一般の社会生活者であることを自覚し、それらから得たイメージを平面空間に解放することを望むようになったからに違いない。以下のコメントには、こうした中里の自覚がよくあらわれている。
た。
この出品作品の主要な部分となる1987年の作品は、テレビの「イラン コントラ公聴会」の放映が流れるロフトで作られました。そのロフトの窓からはポリスのクラック手入れを眺める事も出来ました。これは、絵を描くのに絶好のバックグランドではないでしょうか。(中略)エドワード・フライは、私のロフトへの深夜の来訪で、芸術の中の社会性と政治性について主張し続けました。彼の言葉が、私の作品に特定な方向付けをしたとは思いませんが、それは私の考えを色々とけしかけるのに充分でした。注 [5]
コンプライアンス違反などで倒産した会社エンロンのスキャンダルに想を得て制作した「エンロン・シリーズ」や、アメリカ家庭用品販売チェーン店ウルウォースが倒産閉店した際に同店から入手した砂を使用した「砂絵」のシリーズは、社会の問題や出来事に直感を得て創作へと向かう中里の制作のあり方を伝える作品である。そうした制作の方向性は《リトアニアの人々へ》や《アフリカ民族会議へ》といった政治への関心に言及した作品や、《モナド 冬の曲線》や《モナド 夏の線》といった風景画を連想される作品にも展開されている。
さらに近年、現実世界のイメージを絵に表すことを許した中里の思考は、導かれるようにして原爆投下というテーマへと向けられている。そして仙厓が描いた○△□という造形やライプニッツの単子論から触発されたイメージを混ぜ合わせながら、イメージの増幅をうながす「折黒雨」の連作を生み出した。
この作品でも中里は、決して過剰なイメージをつくろうとはしていない。しかし、70年代のいくぶんストイックな作品に比べれば、イメージが饒舌になっていることは確かだ。それもまた、平面という領域でのイメージ・メーキングをめぐる思考の一過程なのだろう。
滝沢恭司(町田市国際版画美術館学芸員)
注
[1] 中里斉[「特集 発言’72=創造の原点」でのアンケート回答]『みづゑ』804号、1972年1月、p.48
[2] 中里斉+藤枝晃雄、現代との対話PARTⅡ―4「平面の空間性について」『みづゑ』897号、1979年12月、p.72
[3] 同上、p.77
[4] 同上、p.77
[5] 中里斉「1987年6月」『中里斉展―20年の歩み展図録』財団法人アルカンシェール美術財団、1987年6月
[ プロジェクト名とその説明 ]
1、エンボッシング
展示作品中最初期の作品で、アメリカ留学から帰国した時期に日本で制作した版画。
わたしが版画制作を開始したのは、1962年、ウィスコンシン大学版画工房においてだった。当時、地元のミルウォーキー・ビール醸造会社が、ビール缶の器をティン(すず)からアルミに切替えたために、大学には余剰のコーティング塗装されたティン板が溢れていた。それに印刷されていたミラー商標をエッチング針で削り、腐蝕液に入れて凹版版画(intaglio)を制作した。
また、地元の印刷所が放出した、古い広告の絵柄が鮮やかに残る石版を研磨してリトグラフを刷り始めた。1963年には、ソ連版画芸術巡回展で来米したオレスト・ヴェレスキー(Orest Velesky)のエディションを刷った。その後1964年から66年にかけて、タマリンド版画工房(1959年創設)の作品に啓発されてリトグラフの大作制作に励んだ。さらに、1964年に、スタンリー・ヘイターが主宰するパリのアトリエ17の一版多色刷り発明者の一人カイコ・モチ(Kaiko Moti, 1921-1989)の助手を務めた。その際この刷りを習得し、数多くの作品を制作した。
このエンボッシングはイタリアの作家、ピエロ・ドラッジオ(Piero Dorazio, 1927-2005)、アンジェロ・サヴァリ(Angelo Savalli, 1911-1995)、ドイツのオットー・ピーネ(Otto Piene, 1928-)らとの交流の直後に制作したもので、ゼロ・グループやアルテ・ポーヴェラの影響が大きい。
2、アクアチント(町田市立国際版画美術館所蔵作品)
綺麗な夕焼けを見ながら、隣にいる友人に「きれいだね」と云って、友人の共感を得ようとする。友人は「おう」と反応する。あるいは、地下鉄に乗っていて、向かい側の乗客があくびをしたのを見て、つられて自分もあくびをする。こうした現象にも、人と人のコミュニケーションは成立している。このようなありふれた本能的なコミュニケーションが人と美術の間に成立するだろうか。
たとえば、作品のタイトルを考えているとき、新聞のスポーツ欄で大リーガーの成績表を見て、そこに”Kerr”というつづりの選手名を見出す。そして何の理由も無しに「これだ!」と叫ぶ。”Kerr”は歴史上3名いる大リーガーの名前で、そのなかの一人John Kerrは僕と同い年、2009年没である。この大リーガーの名前と自分の作品に具体的関係はないが、何か本能的な直感によってコミュニケーションが成立したような気分はある。
写実描写、心理描写、記憶への依存、描画の癖、感情などを廃してイメージ・メイキングした作品は、如何なるメッセージを発信するかという疑問から制作した版画であるが、観る人の脳にコミュニケートする即応的なイメージを追うことを心がけた。
3、エンラン・シリーズ
エンランは2001年に2200人の従業員を抱え、電力、自然ガス、コミュニケーション、製紙パルプに亘る事業で社史最高の収益を上げた会社である。しかしその翌年、ずさんな経営と発展途上国などでの非人道的な経営から経営困難に至り倒産、アメリカの企業経営全般に大きな問題を投げかけた。また、証拠隠滅の為、書類をシュレッダーにかけた。このエンラン・スキャンダルからヒントを得たシリーズ。
4、レリーフ・インキング
“Process as Image-making (過程即ちイメージ作り)“というコンセプトに沿ったシリーズ。
はじめにジンク版の上にワックス・クレヨンで描画して深く腐蝕させる。その版の凸部にローラーでインクを載せた数種類の版をプレス・ベットの上で組み合わせて刷った作品。色の選択、版の組み合わせ方でイメージが生まれる。
5、300ポンド紙
300ポンド水彩厚紙を支持体として使用した版画。アクリル・ドローイングと砂を加えたスクリーン・プリントで制作した。物質的な存在感と平面の広がりを求めた。カンヴァス作品に比肩する重要な表現領域で、繰り返して制作してきた。
6、空気うけ
矩形という紙のかたちとイメージ・サイズの限定ということを嫌い、カンヴァスまたは紙に描いたモチーフをそこから切り放して壁面にインスタレーションした作品。丸、三角、四角というモチーフを強調するために壁面から浮かせ、周囲の空気の動きを感じさせた。
7、砂絵
砂箱、砂遊びには誰しも想像欲がかき立てられる。この作品も砂遊びから生まれた。使用した砂は、アメリカ家庭用品販売チェーン店ウルウォースが破産閉店した際に、そのアクウォーリアム・セクションから買い集めたもの。
8、パントン・シリーズ
フィラデルフィア・ブランディーワイン工房で制作したオフセット・リトグラフ・プロジェクト。350枚のイメージを一組とした作品。それを二組(2つのエディション)使ってインスタレーションした。一枚のイメージは5枚のアルミ版、5色のインクの組み合わせで制作した。パントンは使用したインクの商標名である。
9、シルクスクリーン・プリント
リトグラフの制作に使う石板を研磨すると、黄灰色の石灰岩の上で研磨砂と水が混ざり合う。その現象から得られる限りないイメージを紙の上に定着させようという発想から生まれた作品。江戸時代の浮世絵版画の技法でもある雲母摺りからヒントを得て、シルクスクリーンで試みた。
10、アクアチント
ラズン(松脂)の粉末を銅版の上に均等に撒き、熱で定着させ、その上にワックス・クレヨンで描画する。この版を酸で腐蝕させるとクレヨン描画部分は腐蝕を免れる。インクをのせ、凹版刷り(intaglio)をする。バックグランドの黒はメゾチント技法による。クレヨンによる運筆に任せての描画は石版クレヨン描画から得た効果で、度を重ねて使っているプロセス。
11、More is More
絵画の矩形という枠組からはみ出ること、作品輸送に便利なことを求めて巻物の様な作品を制作した。制作中に、何故この様な様式の作品を創るのかと自問した時、旧町田街道に昭和の初めまで在った母の実家、紺屋「なるとや」の裏庭、伸子張りされた染め物が連なり干されていた有様、これら私の原風景と呼ぶべき記憶がよみがえった。
「400mの一本の白線」は、1971年の青山ピナール画廊での個展に出品した「100mのカンヴァス」を紙上にリメークした作品。他の作品は「線外シリーズ」の一部である。このシリーズ名は、仙涯(1750-1835)が描いた丸、三角、四角を流用し、仙涯が到達した境地―通常認識される思考の領域を超えたところ、すなわち線の外側=「線外」に行きたいという願望から生まれた。この「線外」という題名は1992年頃から使い始めた。その年に開催した個展の会場、大阪の倉貫画廊が出光美術館のビルの一階にあリ、会期中に美術館収蔵の仙涯作品を見てインスピレーションを得たのである。
12、黒い雨
2001年を迎えて「2001点の制作」と名づけた、新世紀を祝うプロジェクトを「線外シリーズ」で開始した。完成時の作品の収納を考慮し、薄い合板を使った。その後、シリーズ名は「モナド・シリーズ」(単子論シリーズ)に変わり、更に、2007年広島訪問後は「黒い雨シリーズ」となった。作品には制作の日付と制作番号が記されている。このプロジェクトは未だ進行中。この展覧会と同じ時期に町田市立鶴川中学校で開く個展には、2001年アメリカ同時多発テロ発生前後に制作した作品を展示する。
「黒い雨」展示の中央天井から吊り下がる和紙モノプリントは、刷る過程である操作を加え、既成の版画の紙型の枠を超えることを試みた。その操作は単純だが、時に予想を超えた結果をもたらし、版画制作の驚きをもたらしてくれた。
13、荊冠堂ギャラリー・プロジェクト
桜美林学園、荊冠堂ギャラリーの 第一回展となる「中里斉55年後展」は油彩とアクリルによるカンヴァス作品を中心に、全三部に分けて展示された。第一部は昨年7月25日に始まり、現在は4月1日に始まった第三部が展示されている。
展示内容は1970年代の現代日本美術展に発表したコンセプチュアル・アートの影響下で制作した平面作品から、2000年代に至る東京画廊、村松画廊、原美術館などでの個展で発表した作品群の選抜である。なかには40年近く開封されること無く放置されていた作品も含まれている。この展示シリーズは自分自身に新鮮な驚きを与えてくれたと同時に、自身の芸術の全貌を観る絶好の機会となったようにも思われる。
この3部からなる中里斉展の設置作業は、桜美林大学造形専攻の学生と教員らの協力を得て実現したことを付け加えておきたい。
14、フロントホール幟プロジェクト
巾90cm、高さ約10mの布製の幟5点を制作。3~4色を使って幟が持つインスタントなコミュニケーションを試みる。この即時性こそ視覚芸術の核心的要素であり、自分の作品にも重要なコンセプトとなっている。幟が持つ明快なイメージは歴史、民族を超えて意思、感情の伝達に使われている。
マンハッタンの私のスタジオ兼住居であるロフトは画廊街のチェルシーの北、ブロードウエイ劇場の客相手のレストラン街で賑わうヘルズキッチン(地獄の台所)の南にある。ここはガーメント・ディストリクト(縫製地域)、いわゆるファッション街の真ん中で、卸用衣料、布地、縫製用具の店が連なっている。この身辺で入手した素材で作ったこのプロジェクトは、展覧会を色彩旗で祝うためのものだ。