中里斉展
1993年11月1日~20日

「これはいったい何なのか。いわゆる「表現」というもののために入り用なことがらを、わざわざ自分のほうからすべて放棄しているのである。だから、反表現なのだ。六〇年代から九〇年代の新作に至るまで、中里の作品に一貫しているのは、そのことである。……

……中里の、カンヴァスの物理的与件に依拠したイメージの割り出し方は、一旦、罪のない概念的なものへと返した絵に、その状態を損なわないイメージを加えていって、カンヴァスという物体を仮象性そのものへと抜け出させるための作業なのである。」

篠田達美、美術評論家  (1951-   )

イノセントな記号性

絵画から自由な絵画、というものがあるだろうか。もしあるとすれば、それはいま私が中里斉の絵について書こうとしているものだ。

中里の絵に現れている形に、なにか意味を探ろうとしても不可能である。区切られてでてきている長方形、四角、三角の画などに意味を求めて答が返ってくることはない。だから、意味を伝えないフォルムだけで構成されているのはどういうわけなのかという問いから、画を読み解いてゆかなければならないのである。

同じことは線と色彩についてもいえそうだ。いや、そうでもないかもしれない。線それ自体の性質はほぼ一律である。直線がほとんどということばかりでなく、線の圧力が一定なのだ。自立した働きでもって線が人の感情に変化を誘うということはない。だが、ニュアンスがまったくないわけではない。だから、感情を伝えない線とはいいきれないところがある。しかし、ほぼ一律であるのはどういうわけかを知る必要がある。

感情をもっとも喚起しやすいのは色彩だが、作品それぞれの主たる色彩はちがっていても、一つひとつの絵が伝える感情(あるかなきかの微妙なものだ。多分、彩度に関係しているだろう)がちがっているとは思えない。つまり、彩度が一律なように(新作は以前と比べて彩度が全体的にやや低い)、伝達される、あるかなきかの微妙な感情の強弱も、一律にならされていて、決定的な差がない。だから色彩それ自体が重要ではなく、感情を伝達することを目的としているわけではない、と考えるしかない。

さらに一つの作品にどのように色彩が用いられているかを見てみよう。どれか一つの色彩によって絵を語らせようとしているものがあるだろうか。つまり、色こそがほんとうに問題にされるべきものだ、と思わせる作品があるだろうか。

たてに二つに分割されている作品は、どちらかの色が一つのカンヴァスで他方より優勢になってしまうのを嫌っているかのようだ。それは絵に感情的な内容を与えないための自己規制である。形体も、どれか一つがとびぬけて目立ち、その作品の印象を決定づけてしまっている、と思えるものは見あたらない。

色彩の明度は実に丹念にバランスがとられている。明度とその色の面積は、カンヴァス内に明暗法による階層、つまり強調される箇所とそうでない箇所を設けないように、慎重に図られている。一律の彩度が、色彩の性質に応じた色彩の平等主義を、援護しているのである。だから、表面の筆跡のニュアンスなども、感情の伝達を目的としているのではなしに、この色彩の平等主義を、彩度とともに援護するための工夫と見て取れる。

これはいったい何なのか。いわゆる「表現」というもののために入り用なことがらを、わざわざ自分のほうからすべて放棄しているのである。だから、反表現なのだ。六〇年代から九〇年代の新作に至るまで、中里の作品に一貫しているのは、そのことである。中里斉は絵の中にいったい何を盛り込もうとしているのか。

盛り込む前に、除こうとしているのである。色彩の魔術、線の力動、フォルムが千変万化の意味をもちえること。それらはだれもが知っている。そして、それらがどんなに絵を傷めつけてしまうものか、ということも知っている。しかし依然として絵は色や線やフォルムの独善によって、大方は泣かされつづけているのである。いっそ、除いてしまったらどうか。除けるものであるならば。そうすれば、軽々とした、罪のないものへと、絵を返すことができるのではないか。

イノセントなものへ、絵を返す。おそらく中里斉にもっとも近い画家がいるとすれば、それはサイ・トゥオンブリーである。落書きのような線描でトゥオンブリーが絵において試みつづけてきたことは、「表現」をすることとはほど遠いことだった。彼は落書き風の線によって「表現する線」を脱衣し、フォルムの呪縛から自由になり、色彩の魔法の歴史を脱衣した。トゥオンブリーの作品のほんとうの主題は、バルトがいうようなエクリチュールの動作(ジェスト)というよりは、絵の、絵からの脱衣であったように思う。

だからトゥオンブリーの成功した作品にある、何かから抜け出て、「イメージ」の仮象性そのものになったような印象は、この画家の絵が実は絵画のイメージについての絵であることを教えてくれる。そして中里斉の絵もまたそうなのである。脱衣のしかたはちがっていても、絵を罪のないものへ返す、そこにあってそこにないかのような仮象性における「絵画のイメージ」の把握の仕方において、両者は響き合っている。

したがって中里は基本的な形体を描くことに関心があるわけではない。描かれた形体はカンヴァスの矩形を基にしていて、つねにその絵画の物理的な与件を参照させるように描かれている。垂直な要素も水平な要素も、カンヴァスの線を基にした、そこから派生したイメージにすぎない。斜線も斜線を組み合わせた要素も、基本的には絵画が物理的にもっている格子の構造への言及といった面があって、何かの表現ではない。

ここで微妙なのは、絵に客観性や物体性をもたせる目的でそれらがなされているのではないだろうな、という私の勘についてなのだ。この客観性や物体性といったいかめしいことばは、ミニマリズムやコンセプチュアル・アートへと画家たちの作品を組み込んでしまう横暴さとなって、ずいぶん誤解を生んできた。中里の、カンヴァスの物理的与件に依拠したイメージの割り出し方は、一旦、罪のない概念的なものへと返した絵に、その状態を損なわないイメージを加えていって、カンヴァスという物体を仮象性そのものへと抜け出させるための作業なのである。

絵を見えるものにするために、絵についての概念が必要だというのは、そういうことなのだ。中里の作品は、サイ・トゥオンブリーの絵がコンセプチュアルであるという意味において、あるいはあらゆる優れた絵が概念的な考察を可能にさせるのと同様の意味で、イズムとは無関係の地平で、すでにコンセプチュアルなのである。

93年の新作の題名は、木場で材木をかついで歩く人を撮ったロドチェンコの写真を、制作の課程で偶然に見つけたことから、新木場を会場にしての発表と絡めて付けられたようだ。木場を背景にした写真は ‘Vakhtan Wood Pile’、階段を昇る人の写真は ‘Stairs at Quai’、建物が不規則に並ぶ袋小路の写真は ‘Vkhutein Courtyard’ などの作品と関係している。それらは作品への指示機能として、何らかの意味をもつかもしれないし、もたないかもしれない。それらを知った人にしか、具体的な意味作用が起こらないからだ。したがって、題名が重要でないことははっきりしている。

同じことは、他の題名、たとえばサンスクリット語で色を表す ‘Sanyata’が、同時にセックスも意味していて、色に対する東洋的な感情思考に結びついていること。あるいは ‘Line out Side’ が「線外」であり、それは禅画の「仙崖」をもじったものであること、などにもいえるだろう。そしてこの決して重要には思えない題名の選択に何かの意義があるとすれば、それは絵画に対して、外部からの指示機能ないし意味作用を措定する試み、という以外に考えられないのである。

それはカンヴァスの矩形や線という物理的な与件からイメージを派生させてゆく中里の手法と、類似の関係にある。作者の感情や感覚から意味やイメージを生み出してゆく独善的な絵画に陥ることに対抗するために、絵に外圧的な契機を導入しようとしている、その一端が、題名であるにすぎないのだ。

したがって87年の作品がテレビで「イラン・コントラ公聴会」の放映が流れるロフトで制作されたことから、それに関連した題名が付けられたこと。そのシリーズで、大型絵画の組作品に、コンパニオン・ピースという、独立しているとも関連しているともいえる小さな作品が付加されたのも、絵にとっての外在的な契機の導入という観点から、平行して考えることができるものなのである。それらは、絵画から自由になった絵画が必然的にもつであろう一種の概念性を源にした「契機」のヴァリエーションである。したがって表現や構成とはそもそも別次元のものだ。

どうやら絵画内部での思考が余計なものを脱衣させていった末に行き当たる概念性は、「記号」ということに関係してくるようだ。だから、中里の作品もそうであるように、還元的な絵画がもつ記号性は、視覚、つまり感覚がもっとも重要であるカラー・フィールド・ペインティングにも、概念の優位性に立脚したコンセプチュアル・アートにも共有されることになる一つの結論なのである。ロシア・アヴァンギャルドへの中里の近年の関心、および、中里自身のことばでいえば、「絵ではない絵」に対する関心も、その記号性と無関係ではないはずだ。

記号性とロシア・アヴァンギャルドの関係は、中里の作品において少しもはっきりとしていないが、たとえばマレーヴィチの絵画におけるイコンの問題などを通じて想像力を跳梁させておけば、中里の関心の一部でもあったイタリアのフレスコ画などが思い浮かんでくる。そして罪のない絵、絵画の重荷をまだ背負わされていない絵画という点では、13、4世紀のイタリア絵画ほど、それを想わせるものはないだろう。サイ・トゥオンブリーがイタリアに移住して久しいのも、そのことと関係があるはずだ。

中里斉はイノセントな記号にまで還元された「絵画」から、歩き始めたばかりの絵画の幼子のための空間をつくってゆく。それはアメリカ絵画や日本文化の固有性といった重要な問題よりも、絵画にとって、より重要なことだ。

篠田達美