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中里斉(1936-2010年)

1936年東京都町田市に生まれる。多摩美術大学卒業後、ウィスコンシン大学大学院およびペンシルヴェニア大学院で学ぶ。ジョンD.ロックフェラーIII世基金奨学金を受け、1966-67年マンハッタンに初めて住む。1968年帰国し、母校に戻る。当時多摩美の教授陣には美術評論家の針生一郎他、アーティストの斉藤義重、高松次郎、李 禹煥(リ・ウーファン、Lee U-Fan)等がいた。1971年、中里は学園紛争によるストレスから大学を離れざるを得なくなり、米国に戻る。以後、2010年逝去までマンハッタンに在住した。

1970年は中里にとって重要な年で、東京のピナール画廊で初の個展を開催した他、1970年大阪万国博覧会の古河パビリオンで5×25メートルの壁画を制作した。1971年、ニューヨーク市グッゲンハイム美術館の現代日本美術展に出品。斉藤義重に紹介された東京画廊で、アート・ディーラーの松本武とともに個展を6回開催。1987年には東京の原現代美術館および2010年には町田市立国際版画美術館で個展を開催した。

中里は、第二次大戦後の日本に育ち、アメリカの版画ルネッサンスといわれた1960年代初めにウィスコンシンで版画を学び、60年代半ばにはペンシルヴェニア大学で多くの抽象表現主義アーティスト(同美術大学院の当時の学長はイタリアの画家、ピエロ・ドラツィオ)に出会い、ニューヨークのアートシーンに触れ、ニューヨークと東京を何度も往復しながらヨーロッパを始め世界各地を飛びまわる。彼の作品は絵画、版画の両方において、そんな彼の非常にユニークな、見聞豊かな国際的視野を育んでいる。

中里の作品は、一貫してコンセプチュアルでミニマリストである。1970年代初頭に一時期、カンヴァス以外の作品を制作したこともあったが、カンヴァスとペーパーで制作していくという彼の決意を、野球にたとえて、ゲームをする、と説明した。非具象的に制作する選択をし、彼の大型の絵画と版画の中で幾何学的な配分と配置(平面図形の構造と構成)を探求した。

初期の極めてモノトーンな作品から、1980年代半ばにはより色彩豊かな作品となり、1992年には大阪市の倉貫画廊(現名はアートコートギャラリー)で個展を開催し、この画廊と同じビル内にある出光コレクションで禅僧仙厓に再び遭遇した。彼は、ヨーロッパの前衛芸術アーティストたちより少なくとも100年前に描かれた、仙厓の丸、三角、四角の書画に魅了された。

モダニズム以後ずっと使い古された主要形状であるにもかかわらず、中里は21世紀のモダニズムを検証、超越する方法だと確信した。一連の作品を、仙厓にちなんで線外、Line Outside Seriesと命名。未知の新たな領域に辿り着くための探求を進めた。2001年、中里は2001 in 2001 Seriesを始めたが、2010年、NAKAZATO Hitoshi: New York/Machida – Line Outside/Black Rainの準備中、不慮の事故のため未完となった。

2013年、中里の作品は町田市立国際版画美術館で「Machida Connection町田ゆかりの作家展」で赤瀬川源平氏等によるグループ展に含まれた。

このウェブサイトは、私の愛する亡夫、中里斉の作品を祝うために立ち上げました。サイト内で彼が自分のアートについて語ったことや美術評論家、学芸員、歴史家等が彼の作品について論じた評論などを紹介し、斉のコンセプトや理念、彼が「過程即ちイメージ作り」と呼んでいたものについても情報を提供できればと思っています。

日本語と英語の二重性は、斉から切り離すことのできないものでした。自分の作家声明であれ、評論であれ、その日英、英日のどちらの翻訳においても、深く関与していました。自分の考えやコンセプトを説明する言葉やその使い方に非常にこだわりがあって、そのため、このサイトに掲載している翻訳内で使用されている言葉の中には、一般にこの種の翻訳で使用される用語の訳とは違う言葉があてはめられていることがあります。また、より適切に意味を伝えるため、日本文と英文を並べてみると、文章が異なっていることもあります。私は1988年から斉から様々な翻訳を引き受けてきましたが、日英でも英日の場合でも、翻訳の最終的な判断、決定は斉が行ってきました。この共同翻訳作業は、斉と過ごした日々の中でも、とてつもなく大変なことでした。それをこのウェブサイトに掲載できることを誇りに思います。

中里・竹田すみこ

 

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