第二階画廊企画展 中里 斉
1970年11月24日~12月5日
「…… わたしは中里の作品をまえにするごとに、これまで絵画を成りたたせてきたあらゆる虚像を排し、寡黙で、変哲もなく、しかも不逞な迫力をたたえた平面に、つよい衝撃をうけずにはいられない。」
針生一郎、美術評論家、和光大学、名誉教授 (1925-2010)
1970.11.7
平面が絵画に反逆する
「絵画が彫刻にむかうとき」と、アメリカの評論家ルーシー・R・リパードは数年前に書いた。たしかに、近年は美術家の関心の焦点が、二次元よりも三次元の世界に移りつつあるようにみえる。だが、そのなかで中里斉は、あくまで平面の可能性を信じながら、絵画を極限まで解体しようとしている。
絵画はかつて長いあいだ、自然のコピーとされて来た。だが、自然を忠実に写すほど、それはイリュージョンにもとづく絵そらごとにならざるをえない。そのことに気づいたとき、近代の画家たちは、はてしなく対象を分解し、変形し、ついに何ものもあらわさず、それじたいとしか同一でない画面にゆきついた。たとえば、1910年代に、ロシアのマーレヴイッチは、白のなかに白い菱形のうかぶ作品で、このような極比を示したのである。
だが、何ものもあらわさない画面とは。じつは材質の強度を純粋に赤裸に現前させた作品である。第二次代戦後にフランスのイヴ・クラインは、逆にカンヴァスを青一色に塗りつくすことによって、絵画の物質的要素を極小にきりつめ、イリュージョンの空間だけを純粋に顕在化しようとした。この二人の仕事によってむきだしにされたのは、絵画が本来平面、素材、描く行為という三つの基本条件から成立する事実であって、それらの新しい綜合が求められているといえる。
中里はこのような絵画そのものの矛盾があらわれになった廃墟、無人の境から出発した。1960年、かれは大学をでて地方新聞の美術記者になり、安保闘争や韓国の学生反乱やクーデターをテレタイプでみているうち、外国留学を計画したという。アメリカの大学に籍をおいて、版画や印刷の工程を研究するかたわら、日本の技術者の通訳として工場をまわり、しだいにシステム・デザインに眼をひらかれた。とりわけ、フィラデルフィアで、イタリアの画家ピエロ・ドラツィオの教えを受けたことが、かれの芸術観の骨格を形づくったようだ。ドラツィオにはマーレヴィッチからイヴ・クラインやフォンタナに通ずる、ヨーロッパ構成主義の基本理念が流れており、わたしも数年前かれとニューヨークで会ったとき、フィラデルフィアのかれの教室に、ぜひティーチ・インにきてくれと誘われとことがある。だが、中里はドラツィオによってシステム的思考をいっそう明確にする一方、アメリカのビートニク、ヒッピーなどの生活にも惹かれプリミティブな生活の原点から芸術をとらえ直そうとしたらしい。
こうしてかれは、絵画のなかで、平面の新しい可能性を自覚しはじめる。どんなイリュジョンをもつくらないために、描く行為は直線をひくという、もっとも単純な、もっとも普遍的な作業に限定される。下塗りをしない裸の紙や綿布の上に、チョークや鉛筆や墨汁で、五線譜のような直線が、ときには平行し、ときには接近しまた遠ざかり、ときにかすかにじみをおびてひかれる。そこには材質の強い手ざわりと同時に、始原的な行為の新鮮な鼓動があり、墨縄をひく職人の敬虔さがある。そして空間は、あくまで無限定にあけ放たれている。さらに、作品は完結することなく、たえず自由に描き変えられることによって、行為の現在性がはらむ時間の契機をもつよく感じさせる。わたしは中里の作品をまえにするごとに、これまで絵画を成りたたせてきたあらゆる虚像を排し、寡黙で、変哲もなく、しかも不逞な迫力をたたえた平面に、つよい衝撃をうけずにはいられない。
この展覧会は、二年前に帰国した中里斉の日本でははじめての個展である。貸画廊での展覧回に疑問をいだいてきたかれは、もっと異質な発表の場を求めて、今日まで個展をひらかなかった。単純ともみえるひとつの仮設を、極限まで押し進めようとする、かれのような仕事は、日本では容易にうけいれられないが、わたしはそういう制作こそいまいちばん大切だと信じている。(1970・11・7)
針生一郎