Hitoshi Nakazato: Painting Series
2007年10月4日~14日

「アーティスト、中里斉は先験論者である。彼はまた、慣習・しきたりを微妙に、根気よく解体する、真の脱構築主義者でもあり、そして何よりも矛盾した人である。私は以前、彼の作品をミニマリズムとほとんど関係のないミニマリストの作品、フォーム(形式)を決めないフォーマリストの作品、抽象的でコンセプチュアルから離れた色彩構成を展開する官能的なカラリストの作品、と説明したり、反表現を孕み、否定するための無邪気さに満ちた作品を無造作に作る人、などと説明してきた。」

ダニエル・ダルセス、ペンシルヴァニア大学MFA 2002
フィラデルフィア市パジエント・ソロヴィーヴ・ギャラリーのオーナー

ザ、ビッガーピクチャー

中里斉の生徒になったその瞬間から、私は彼が卓越したアーティストであり思索家であることを知っていたし、実感していた。斉のモノタイプ制作デモを見聞し、その無駄のない動きや素材に接する際の躊躇のなさに心を奪われた。彼の講義に耳を傾けると、本当に美術史に精通し、関わってきた人のみが伝えることのできるような様々な逸話にあふれていた。工房での実習時に、斉は他のことについて話して、その話し方は絶えず私を驚嘆させていた。彼は常に、より大きな問題を指摘し、そこから話を始めた。斉は私にとって、尋問者、模索者、そして実践者としてアーティストの手本だったし、今でもそれは変わらない。

アーティスト、中里斉は先験論者である。彼はまた、慣習・しきたりを微妙に、根気よく解体する、真の脱構築主義者であり、そして何よりもパラドックス(矛盾した人)だ。私は以前、彼の作品をミニマリズムとほとんど関係のないミニマリストの作品、フォーム(形式)を決めないフォーマリストの作品、抽象的でコンセプチュアルから離れた色彩構成を展開する官能的なカラリストの作品、と説明したり、反表現を孕み、否定するための無邪気さに満ちた作品を無造作に作る人、などと説明してきた。

彼はこれまで世界を股にかけ、その経験を工房に持ち帰り、図形を使った言葉の中に取り入れ、思考を剥ぎ取り、その時々の微妙な問題に焦点を絞る。原爆の余波が残る母国で育ち、1960年代の動乱期にアーティストかつ思索家として成人した。バーネット・ニューマン、ヘレン・フランケンサーラー、ロバート・マザウェル、クリフォード・スティル、ロバート・モリス等が集うペン大への留学、日本帰国後、公開尋問を受け、資本主義のシンパだと無理やり認めさせられるなど、学生自治体に非難された。大学からは学生シンパの疑いで免職され、その後は自主的に国外追放になった者のように、母国に戻り住むことはなかった(今までのところ)。こうした経験が、一部決定的な要因となって、斉の物の見方を形作っている。

斉と話していると、彼の作品が、人間の生きるための苦闘、又はそれにもかかわらず生き残ろうとする文明の苦闘など、苦闘を国際化し、圧縮したものだと気付くだろう。有効なイメージを作るための苦闘は、彼を取り巻く世界の状態を評価するときの知的明晰さを維持するための彼の苦闘に平行している。彼の実践は、イメージ作りの新境地に達することは、自己啓蒙に向かって前進することに類似している、という彼の考えと密接に関連している。彼の作品に対する二つの別個の見方を考慮すると、その飾り気のなさが面白い。どちらも単純で、むしろ苦労の跡がなく、抽象的で超然としているように思われる。しかし、斉の作品は、絵の媒体に徹底的に精通していることなど、非常に多くのものが隠されている、まさにそのような作品なのである。

斉の絶え間ない活動において何が彼を駆り立てているのかを完全に理解するためには、彼の人生の始まりに遡らなければならない。2005年、ページェントでの個展の際に斉にインタビューを行ったときのこと: ソロヴィーヴ、そのことを話したばかりじゃないか。彼のアーティストとしてのキャリアの重要な時期を取り巻いていた政治、社会の様々な状況について、斉が話してくれたその幅の広さに感銘を受けた。明らかに、彼は、工房にゆったりくつろいで、ニルヴァーナ(涅槃)を描く難解な探求に夢中になっているような人ではなかった。以下は、当時の会話からの抜粋である。中里斉が、引き続き彼のアートを創造していきますように。そして、長年にわたり彼に奮起させられてきた者全てを代表して、彼がこの世に与えたあらゆるものに対して、彼に感謝する。

DD: 若い頃の日本での厳しい状況について話してくれませんか。美術学校でどうなったんですか?どうして特定の出来事が作品を制作する理由だと自問するようになったのですか。それでも、最初から、母国の戦後惨禍の中でアートに関わっていましたよね。

HN: 回顧の念にとらわれたくない。でも、私にはハングリー精神があったと思う。近所の学校に裸足ででかけた。冬だったのに。ガラスのない窓がたくさんあって、ストーブもなくて、飢えていた。文字どおり、飢えていたんだ。戦中からダグラス・マッカーサーの新時代になり、あらゆる面で国が変化し、私は教室で、教科書の全てのページを黒い墨で塗りつぶすように言われました。ちょうど今私がキャンバスを塗っているようにね。戦中も戦後も大変だった。でも精神的に私はハングリーだった。物を必要としていた状況がアートへの関心を持たせたのかもしれないです。1948年にキリスト教系の学校の7年生になりました。校長先生が、彼の母校、オーバリン大学の歴史やその功績について話してくれました。肌の色や性別に制限を設けなかった初めての大学であること、アメリカの社会や民主主義、そしてそれが何であるかについて話してくれました。洗脳されましたね(笑)。それで、アメリカに来ることが夢になったんです。その夢がかなったのが1962年で、美大を卒業して、こまごま仕事をした後のことでした。

でも、ここで一生を過ごすつもりはなかったんです。それで、ペン大の院を卒業して2年間ニューヨークに住んだ後、母校の多摩美に戻って教鞭を取りました。60年代末に三年間そこにいたのですが、それがちょうど日本を含めて、欧米中の大学で反体制運動が起こっていたときでした。毎日、マルクス派だのレーニン派といった急進派学生グループとの話し合いに時間を費やし、学生自治会全体の前で、中国文化大革命に近い方法で、資本主義とコラボするアーティストとしての私の役割を話しました。私は絶対にタブロー、すなわち商品として扱われる完成作品は制作しないと宣言しました。絵の制作は私にとって完全に無に帰してしまいました。どんな筆跡も、絵の具からパレット、キャンバスまで、画材店で絵の具を買うことさえ意味をなさなくなりました。 その後、急進的な学生グループ、教授陣、美術評論家たちが参加した学外のセミナーで、私はゲスト・スピーカー、カール・アンドレの英語の通訳を務めました。美術評論家、針生一郎の質問の一つが、「この社会からアートがなくなったら、どうなるのか」というものでした。アンドレの回答は素晴らしく、彼の言葉がそのままその時代の私の制作の道しるべとなりました。彼は、アートはイマジネーション(想像)であり、それがアートのない世界に住む者と私たちを区別するものである、と。それがなければ今日が永遠に繰り返されることになり、そこには何の歴史も生まれない。

これが、私の幼少期から大学を終える頃まで経験したり考えたことです。

その後は、工房で、自分のビジョンを見つけ、自分の言葉を見極めていくことに努め、私は、最も有効なイメージ作りは、イメージが現れては消える教室の黒板だと考え、砥粒と水で研ぐたびに石版石の上に無限に現れるイメージに興奮を覚えました。後にこの考えに基づいて一連の作品を制作しました。

友人のアーティスト、李 禹煥(リ・ウーファン)がかつてこんなこと言いました。「お前はいい絵描きだが、作品は少ないな。」30数年前の話です。それ以後、彼の言葉を真剣に受け止めました。2001年に、私は「2001年に2001枚の絵」と名付けたプロジェクトを考案して、今でも作業を続けています。このプロジェクトの基本的な考えは、私の中から生まれるものは全て私のものである、よって、課題は、一貫したスタイルの探求ではなく、どれだけ沢山のことができるか、に置くべきだということです。そのものが自ら現れ、自ら語るべきだ、と。そこで、工房での私の課題は、常に違うことをすることです。違えば違うほど望ましく、あまりに違っていて自分でも受け入れられないときは、自分を制するか、私の感性を変えなければならない。そうして、作品を見ないようにする。ただ、一心に作って、片付ける。ある意味で日記のようなものかなあ。わかるでしょう、そんな感じ。

DD:それで、作品はみんな日付が書かれているのですか。

HN: うん。日付はつけてある。9/11の頃はいくつか抜けているものもあるけど。作品は制作していたと思うけど、それでも1ヶ月くらい休んだ。社会の無気力を感じていた。当時はどうしていいのかわからなかった。社会で何が起こっていようと工房にいて、絵を描き続けていいのだろうか。工房に入ることさえ、無意味に思われた。先日書いたことですが、私はこの問題を、アーティストはイマジネーションに関与する、それが人間の存在を主に動機付けるものだ、というアンドレの言葉で解決しました。

ファインアートの歴史は、社会でそれぞれの役割を失う、社会的な役割を失う[アーティストの]歴史なんだ…つまり、アーティストは神、権力、金持ちに仕え、そして大衆に仕えてきた。それから、「自己表現」という言葉で自分に仕えた。「誰もが自分自身を表現したら、将来の社会にアーティストがいる必要はないだろう」と未来派の建築家バックミンスター・フラーが述べている。現在は、商品製作者としてのアーティストの最後の役割が盛んだが、現時点で私はこれにはそれほど興味がない。ともかく、私が制作する作品の数が、多ければ多いほど、生まれるものの可能性も多くなり得る。はっきりとは言えないが...仏教の言葉で言えば、私は1回お経を唱えるだけで救われるなど思っていないが、生涯お経を唱え続ければ救済もあり得る、と信じています。  だから、願わくば、既知の世界を超える何か、経験界の外に出る何かにばったりぶつかるといいのですが。

「線外」シリーズは、仙厓にちなんで題名しました。仙厓は、漢字で「「崖の上の僧侶」の意味ですが、18世紀の禅僧、画家で、ロシアのシュプレマティスト(絶対主義派)より100年以上も前に、三つの原始的な図形を描いて外の領域に達しました。  そのようなところに...どうやったら行けるのか?仙厓は、漢字で「線外」とも書ける。境界線を越えることを暗に意味していて、テラ・インコグニータ(未開の地)へ、ということかな。この題名をあまりにたくさん使ってきたので飽きてきて、それで新しい題名を思いついた。「モナド[単子]」という題名です。ギリシャの哲学者、ライプニッツ[17世紀の数学者、哲学者]が案出した元素学で、エレメント[単子]の組み合わせが世界を作っているという考えです。あらゆる哲学者がこういった要素をもって宇宙の構造を説明しようとするように、私は、私の小宇宙、ペインティングを描くのにこれらの原始的な要素を使っています。

DD: 自分で自分をどのように見ておられますか。

HN:  そうですね、私は、ある特定の時代の日本人アーティストです。1960年代に日本を離れましたが、年に2,3回日本に戻っています。1960年代末から70年代初めの学生運動時に日本で教えていました。でも未だに私の主な人生経験は、その1970年代までに起こりました。それで、私の日本人としての背景は、40年代、50年代、60年代初期と70年代のものです。

現在、日本のサブ・カルチャーであるアニメなどが注目されています。私は、それからはほど遠いところにいる。日本に住んでいたら、日本人としてのアイデンティティは問題ではなかったかもしれない。皆同じだから。だが、私はここに来ているので、それが問題だ。政治的な問題がある。政府の政治というのではなく、生活や文化の価値という意味で。私は、自分が描くものは何でも十分に承知している。私が原始的な図形を使うことは知っていると思うが、私はその図形だけを描いたことはない。ここに丸が一つある...しかし私は丸を描かなかった...私は背景を描いたのだ。結果的に、丸が出た。私はいつも、図形と図形の間のスペースを描き、そうしてスペースが出てきたのだ。線と線の間を埋める。物や特定のイメージを描いたことはない。空気、背景を描いたのだ。私の筆跡が線の輪郭を描くようなことをしたくなかった。丸、三角、または他のどんな形も描きたくなかったので、背景を描いたのです。イメージ(形象)はない。

自分の考えを伝えるのにイメージを描く必要はない。ただ描くのみ。それだけで政治的、文化的な声明だと思っています。このアイス・ボックスでの展示会には、超横長の作品シリーズが含まれています。これらの作品は二つの考えをもって制作しました。一つは、東洋の巻紙を使用して西洋の横長絵画の形式に対する概念を壊すこと、そしてもう一つは、展示会に出展する搬送費を私が払わなければならないという金欠美術館の要求に協力することです。プロジェクトを進めているうちに、作品の原点が子供時代の記憶、伝統的な紺屋の裏庭に染め物を干すためぴんと張った布が何列も横長に並んでいた原風景であったことに気づき、涙がこみ上げてきました。何時間も遊んだ戦前の母の実家でのことです。工房での制作を通じて自分を発見した、心躍る発見でした。

ダニエル・ダルセス