中里斉展
1982年4月12日~24日

「この作品の中での視覚的遊びは複雑さがあり、償いがあり、私達が見る間にも、それ自身が再新されて行く芸術なのである。近年アメリカ住居し、教壇に立って居る中里は洋の東西両方の芸術家のモダニズムの認識の上に立って豊かな実を結ばせ得る希有な感性と知性をもたらして居るのである。」

ジーン・バロ、学芸員

中里 斉 …….

作家が作品の中に入れなかったものは、時には入れたものと同じ程度に重要である。又、作品を完成させる度合いはそれをはっきりと終結にまで至らせるか、仄めかしのままにして置くかによって作品の知的なもの、又は視覚的弾性と私達の興味を新しくするための力とを確立させる場合の第三要素となるのである。

中里斉の絵画の中では現実のものと虚空のものとの間にある緊張感は微妙に制御し合って居り、どの作品も決して静止したものとは見る事が出来ない。と云うのは彼の作品は常に如何に何を見るかと云う力の相互作用と均衡化された不均衡とが反映し合って居るからなのである。中里のエレガントなプロポーションは可能な限り完全さに近付けようとするシステムを連想させるかのように見えるが、実際には彼の手仕事や真直ぐでないエッジによってそれは反転させられているのである。色と線の使い様は、それが図面上の係り合いでカンバスを瞬時に一枚の薄紙やスクリーンの様に変化させて、それと同時に彼のスケールと洗練された平面は私達を気体と光のみちた空間感覚にまで導いてくれるかのようである。

彼の絵が完成するのかあるいは完成を拒むのかに見えるその仕方の中に私達は一つの新しく加えられたリアリティーへのチャレンジを彼と共に見出すのである。多くの場合、そこには多分見る人の目によって解決されるであろう完成への仄めかしがあるのであるのであるが、部分的に枠のついて居る作品のエッジは別の視点から眺めた場合には、すべてが本質的なもののむき出しにまで剥ぎ取ってしまう所までさかのぼり、減少する様に思われるのである。

この作品の中での視覚的遊びは複雑さがあり、償いがあり、私達が見る間にも、それ自身が再新されて行く芸術なのである。近年アメリカ住居し、教壇に立って居る中里は洋の東西両方の芸術家のモダニズムの認識の上に立って豊かな実を結ばせ得る希有な感性と知性をもたらして居るのである。

ストックッホルム、スウェーデン
ジーン・バロ